2007年01月22日

本能寺の跡

信長の墓

本能寺の変戦死者


2007年01月14日

長岡京とは?

 長岡京は延暦3(784)年11月から延暦13(794)年10月まで,
   山背国(やましろのくに)乙訓郡長岡村(現在の京都府長岡京市・向日市あたり)を中心として,
       桓武天皇の命により造営された都です。

 現在の向日市域に政治の中心地となった大内裏が置かれ,
      また長岡京市域には経済の中心となった東西二つの市がありました。

 都の西南にあたる京都府乙訓郡大山崎町附近には山崎津(やまざきのつ),
    東方にあたる京都市伏見区には淀津(よどのつ)などの水陸運の要所が展開され,
さらに現在の京都市南区・西京区域をも含む,東西約4.3キロメートル,南北約5.3キロメートルを範囲とする都でした。

長岡宮大極殿跡

 延暦3年(784年)11月11日から延暦13年(794年)10月22日までの間 日本の都は乙訓郡に設けられていました。
       ///////これが長岡京です/////

 乙訓郡は 現在の向日市・長岡京市・京都市の南西部・大山崎にあたります。

 近年の発掘調査により長岡京は平城京の条坊制を踏襲しながらも官衙(かんが)の配置や規模には独自性を有し、平安京の造営に少なからず影響を与えた大規模(東西4Km南北5Km)な都であることが判明しました。

 大極殿跡は昔から「大極天(殿)」とよばれ早くから注目されていたところですが、昭和34年・36年に発掘調査され、その規模が解明されました。

 昭和39年(1963年)には国の史跡に指定され、現在、公園として保存活用されています。

 
 

2007年01月13日

向日神社

 元々は、同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)「火雷神社」(下ノ社)という別の神社だった。いずれも延喜式神名帳に現れる古社で、「火雷神社」については名神大社「乙訓坐火雷神社(乙訓神社)」の論社です。

 向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるといわれます。また火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山城国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝えられています。

 火雷神社は養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀しましたが、中世に至ると衰微、建治元年(1275年)には向神社が併祭することとなり、向日神社と社名を改めて今日に至っています。

 京都府道67号西京高槻線(アストロ通り)から、長い石畳の参道に入ります。参道は桜・ツツジ・カエデ等の並木が連なる緩やかな登り坂で情緒がありますが、時折自動車も走るので注意が必要です。
 境内に入ると、舞楽殿が控えて拝殿・本殿はその奥にあります。
本殿は応永25年(1418年)建築。室町時代の流造を代表するものとして、国の重要文化財に指定されています。また明治神宮本殿は、当社本殿を1.5倍のスケールにした設計です。

 *交通アクセス
   最寄駅:阪急京都本線西向日駅から北西へ500m


2007年01月11日

天王山の歴史

 天王山は、京都府乙訓郡大山崎町の山。
     西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎります。

    山名は、中腹に鎮座する酒解神社(牛頭天王を祀る)に由来します。

 上記のような地峡を扼する地であることから、
       南北朝や応仁の戦乱でも戦略上の要地として争奪の舞台となり山城も築かれました。

 なかでも、山崎の戦いでは、この山を制したほうが天下をとることとなり、

      「天下分け目の天王山」として、
         現在でもスポーツやゲームの重大な試合や局面の比喩に名を残します。

なお、この戦いを制した羽柴秀吉は、
     天正10年(1582年)末に当地に山崎城(宝積寺城、宝寺城とも)を築いて、
                                    翌年に大坂城に移るまで本拠としました。

 くだって幕末、禁門の変では、長州藩が当地をおさえたうえで京都御所へ進撃しますが、
          結果的に敗走し、参陣していた真木和泉ら十七烈士は、当地で自刃しました。

大山崎山荘の建物

 建物は実業家・加賀正太郎が
      1932年の昭和初期に完成させた
          三階建てのイギリス・チューダー様式の山荘である本館と、
   それとは別に隣接して地下に作られた・・・
 ・・・・・・安藤忠雄設計の現代建築の新館「地中の宝石箱」からなります。

 山荘は戦後に荒廃していましたが、
      保存運動が高まり1996年に今日のように私立美術館として再生されました。

大山崎山荘美術館のコレクション

 大山崎山荘美術館のコレクションの中核は、
     朝日麦酒株式会社(現アサヒビール)の創業者として知られる関西の実業家
        山本為三郎の収集したコレクションであす。

 彼は大正から昭和初期に柳宗悦らが提唱した
           「日本民藝運動」の賛同者であり支援者でもあります。

 大山崎山荘には民芸運動にかかわる
     河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉、棟方志功および芹沢銈介といった
           作家たちとの交流の中で収集された作品が展示されています。

 陶磁器・染織・絵画などの作品や、
       彼らにインスピレーションを与えた朝鮮王朝の古陶磁、
           イギリスのスリップウェアなどの古陶磁といった、
               生活用品でもあった美術品がおさめられていますが、  
                     これらは山本自身が日常親しく愛用したものばかりです。

 ほかにも、クロード・モネの絵画『睡蓮』連作を複数所有するほか、
    モーリス・ド・ヴラマンク、アメデオ・モディリアーニ、パウル・クレー、イサム・ノグチ、アルベルト・         ジャコメッティ、ヘンリー・ムーアなど、
            第二次世界大戦前後の近現代美術も展示されています。

大山崎山荘美術館

 アサヒビール大山崎山荘美術館は、アサヒビール運営による私立美術館です。

京都府乙訓郡大山崎町に立地。
  大阪府と京都府の境にある天王山の山腹に位置し、
       真下に木津川・宇治川・桂川の三川が淀川へと合流する美しい風景を見ることができます。

2007年01月10日

細川頼春が築いた城・・・勝竜寺城

 1339年(暦応2年)、京をうかがう南朝方に対抗するため、
                      北朝方の細川頼春が築いた城。

 西に西国街道、東に久我畷、南に淀川の水運をうかがう要地であるため、
                           そののちも各勢力の争奪の舞台となる。

       戦国時代には和泉細川氏の細川元常、続いて三好氏重臣岩成友通が城主となる。

 1571年(元亀2年)、山城国西岡一帯を
           織田信長より与えられ、城主となった細川藤孝(幽斎、元常の養子)は
                                     二重の堀を持つ堅固な城に改修。

 1582年(天正10年)、山崎の合戦では、
               細川家の縁戚でもあった明智光秀の拠点となったが落城。

                     その後、淀城の築城に石材が使用されるなどして荒廃する。

 江戸期に入って1633年(寛永10年)、永井直清が封ぜられ(山城長岡藩)、修築をおこなうが、
           
         1649年(慶安2年)、摂津国高槻に転封されると同時に廃城となった。

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明智光秀の娘、玉が嫁いだ・・・・・勝竜寺城

 歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、

      天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁いだ城で、

          後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。

 鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、

      我が国の城郭史上でも貴重なモノであることが発掘調査で明らかになりました。

   この跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市の公園の姿で復興しました。

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