「日本三大えびす」の一つ・・・「京都のゑびす神社」は東山区にあります。
1202(建仁二)年に、臨済宗の開祖栄西が建仁寺を建てるための鎮守社として創建されました。
室町時代には京都で同神社を含む「七福神めぐり」が始まり、
江戸時代には商売繁盛や旅の安全を祈る人たちでにぎわいました。
「えべっさんのササ」はゑびす神社が江戸時代に配り始めた札の変わりで、
これが全国に広まり定着したといわれます。
ふくよかな表情を見せるえびす神の石像は見ていて心が和む思いです。
★東山区大和大路通り四条下ル。京阪電車四条駅から徒歩5分。地図
山科にある京都薬科大グラウンドの一角に「血洗池(ちあらいいけ)」と呼ばれている池があります。
その昔、牛若丸(源義経の幼名)が京都から奥州に向かう途中、この付近で盗賊に襲われ、盗賊を切り倒しました。その刀を洗ったのが血洗池で、その池の傍にある四角い石に腰掛けてしばし休憩したのだと言われています。この石が「義経の腰掛石」として保存されています。
血洗池には別の伝承もあります。牛若丸は盗賊に襲われたのではなく、蹴上ですれちがった平家の侍関原与一に水を蹴り上げられたことに怒り、一党を切り捨て、その刀を洗ったのだという説です。
他の説は、木曽義仲が義経に敗れ大津へ落ちゆく途中で、巴御前とともに血で塗れた刀を洗ったという説があります。
はっきりしたことはわかりませんが、ともかく血洗池がそこにあることは事実です。わずかに残された池は、現在に残る「血洗町」の町名の由来を語ります。
★「義経も腰掛石」は、地下鉄東西線御陵駅から徒歩約10分。<地図>
日本初の人体解剖を行った山脇東洋(1705~62年)は、幕府の医学者として名を成しました。
ある夜、東洋は夢を見ました。解剖された死刑囚の幽霊が枕元に現れて訴えました。
「私は罪を犯していないのに捕らえられ、死刑にされてしまった。
そのうえ解剖までされて五臓六腑もなくしてしまったから、いつまでたっても成仏できない」
夢から覚めた東洋は早速、その霊を鎮めるために阿弥陀如来像をつくってもらい、
山脇家の菩提寺である誓願寺に寄進しました。
その阿弥陀如来像の胎内には「内臓」があったといわれています。
東洋が寄進したと伝えられる「内臓のある阿弥陀如来像」は、
1864年の蛤御門の変(禁門の変)で誓願時一帯も焼失してしまい、残念ながら今はありません。
★中京区<地図>
恋愛成就・子授け・安産の神として知られる恋志谷神社は、京都府の最東端・南山城村にあります。
鎌倉時代末期、倒幕を企てていた後醍醐天皇は、
その計画が幕府側に知れ、笠置山に身を潜めました。
これを聞いた天皇の妃は、伊勢で病気療養中でしたが、病の体をおし、駆けつけましたが、
すでに天皇は追ってから逃れるため、笠置山を跡にしていました。
妃は悲しみと長旅の疲れで持病を再発。
「恋い焦がれ、病に苦しむようなつらいことは自分一人で十分。人々の守り神になりたい」・・・
・・・・・・・・・・・・・と遺言を残し、この世を去りました。
妃を哀れんだ人々が祠を建て、祭りました。
最期まで「恋しい、恋しい」といい続けていたことから、
「恋志谷さん」と呼ばれるようになったといわれます。
★京都府南山城村南大河原。JR関西線の大河原駅から徒歩で10分あまり。<地図>
縁結びの・・・「幸神社(さいのかみのやしろ)」・・・
ここで愛を誓った男女の縁は永遠に結ばれると、古くから伝えられています。
神話の時代、天岩屋戸に隠れた天照大神を、伏せたおけの上で踊ることで引き出すことに成功した
天細女命(あめのうずめのみこと)が猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と出会い、結ばれました。
幸神社は猿田彦大神と天細女命を祭っています。
★京阪出町柳駅から徒歩6分、地下鉄今出川駅から約10分。<地図>
京都府南丹市のほぼ中心部の園部町美園町に、標高約50メートルの小高い山がそびえています。昔、子供を背負った若者が朝、夕二回、鐘を突く姿が見られたことから、いつしかその山は鐘撞山と呼ばれるようになりました。
伝説によりますと園部町が寂しい寒村だったころ、山のふもとに気だての優しい若者が年老いた母親と一緒に暮らしていました。
ある夜、一人の若い娘が宿を求めて訪ねてきました。身寄りのないことを知った二人は、引き止め、娘も恩返しに心から母子に仕えました。まもなくかわいい子どもが産まれました。ある日、若者がいつものように帰宅すると、その日だけ妻の出迎えがありません。部屋を覗くと中にいたのは大蛇でした。
妻は「本当は山にすむ大蛇です。あなたに尽くそうと人間に化けていましたが、正体を隠すのを忘れて眠ってしまいました。」と打ち明けました。そして「山に戻ります。ただ岩穴の入り口を農家の人が壊す計画があるので、昼夜が分かるよう、朝、夕、鐘を突いてください」と泣いて戻って行きました。
その後、言われた通り、毎日、鐘を突き続けたといわれています。
園部藩主・小出英貞公が1731年、ふもとにある南陽寺に釣り鐘を寄進したとされてます。同寺では現在も毎日、午前六時、同十一時、午後六時の三回、鐘を鳴らし、時を伝えています。
★JR山陰線園部駅から徒歩約15分<地図>
西京区大原野にある十輪寺・・・平安初期の歌人、在原業平(なりひら)が五十六歳で世を去るまでの晩年を同寺で閑居し、なりひら寺とも呼ばれます。
平安貴族の風流な遊び・・・「塩焼き」・・・業平も難波から海水を運ばせて煮詰め、海辺の風情を味わったといわれてます。その塩がま跡が十輪寺にあります。
藤原氏の攻略によって、業平との恋仲を裂かれた清和天皇の后、二条后(藤原高子)が藤原氏の氏神の大原野神社を参詣した際、業平が塩がまから煙を立ち上がらせて変わらぬ恋心を伝えたエピソードがあります。
数々の恋愛遍歴で知られる業平にあやかって恋愛成就を願う若い女性の参拝客が多く訪れるようになっています。
★西京区大原野小塩町。阪急桂駅西口から市バスで大原野小学校前で下車し徒歩約1.5k。<地図>
平安前期の光孝天皇勅願に始まる仁和寺は、皇室ゆかりの格式高い寺です。
「従然草」の吉田兼好は、仁和寺境内だった雙ヶ岡に草庵を設け、執筆にいそしんだといいます。宗教者でありながら、大寺院とは距離を置き、隠遁生活の中でありのままの世の中を描いていました。
雙ヶ岡東麓の長泉寺境内には、兼好の墓と伝わる「兼好塚」があります。
★京福北野線の御室駅から徒歩3分。<地図>
禅宗に特有の厳粛さや静寂感、
また戦国武将の面影やその時代の歴史の一端に触れるならば・・・大徳寺!
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山。鎌倉末期の1315年に宗峰妙超が創建しました。応仁の乱で建物が焼失しましたが、一休禅師が堺の商人の保護を受けて復興させました。織田信長や豊臣秀吉、石田三成、黒田長政ら諸大名が建物や土地を寄付し、江戸時代にはほぼ現在の形になりました。
二層構造の三門・・・上層を完成させた千利休が自身の木造を安置し、これに激怒した豊臣秀吉に切腹を命じられた逸話が残っています。
高桐院・・・悲劇的最期を遂げた細川ガラシャや夫の忠興をはじめ細川家代々の菩提を弔います。
★地下鉄烏丸線北大路通を西へ徒歩15分。市バスは大徳寺前下車。<地図>
794年に桓武天皇が長岡京から都を移した平安京の中心地・・・平安宮・・・大内裏とも呼ばれ、その範囲は、現在の大宮通から御前通にまで及びました。
その跡には民家や商店が立ち並び一帯に名残は少ないが、そこかしこに「都」を感じる遺跡の石碑が立っています。
国の儀式や宴会を行う「豊楽殿」跡は、中京区にある京都アスニーの南東にあります。千本通丸太町の北西角にある児童公園には、政務の中心地で、天皇の即位式や大嘗祭も行われた「大極殿」跡の大きな碑が木々に囲まれたたずんでます。
中立売通を東に折れ、正親小の北東角・・・天下統一を目前にした豊臣秀吉が築いた「聚楽第」が付近にことを、小さな石柱が示しています。
ほかにも多くの説明板や石碑が、一帯の民家の軒下などに立っています。
★京都アスニーは、京都バス丸太町七本松バス停前。<地図>
二条城の南側に神泉苑があります。
平安時代には、干ばつになると密教僧による雨乞いの祈祷がしばしばおこなわれました。
有名なのが、東寺(南区)の空海と西寺(現在は廃止)の守敏(しゅびん)の二人の僧侶による
雨乞いの術比べの言い伝えです。
天皇の遊猟、釣魚の地として利用された神泉苑ですが、
祈雨の霊場や怨霊鎮魂のための御霊会の場ともなりました。
現在は、池の島に設けられた社に善女龍王を祭り、
地域の人たちから「ひでんさん」の愛称で親しまれています。
★中京区御池通神泉苑町東入ル。市営地下鉄東西線「二条城前駅」下車、西約300メートル。JR二条駅からは東約600メートル。市バスは「神泉苑前」。<地図>
京都市上京区にある名和公園に、南北朝時代、京で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた石碑が立っています。
名和長年は、隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献しました。
楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職につきましたが、1336年、足利尊氏に討たれました。
戦死した場所が、今の公園辺りとされてます。
★大宮通一条下ル。市バス・大宮中立売りから徒歩1分。<地図>